マンガ家の力、編集者の意義・第2回:松崎武吏の「編集道」(下)

マンガ家の力、編集者の意義・第2回:松崎武吏の「編集道」(下)

編集現場のリーダー松崎が、これまでに作家さんとの関わりの中で学んできた「大切にしていること」「伝えたいメッセージ」とは――
多くの作家さんと接してきたことが、自身にとっての成長機会そのものだったいう松崎。彼はいかにして編集者となり、また編集長として、どのように作家さんと向き合ってきたのか。松崎が考える、作家さんにとっての「編集者の意義」とは。
過去の経歴をたどりながら、現在の取り組み、そして未来へ向けた思いまで、マンガボックスでの掲載を目指す作家の皆様へ向けて、全4回に分けて配信しています。

マンガボックス編集Gリーダー松崎武吏

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1994年、22歳で編集アシスタントとしてエニックス(現スクウェア・エニックス)へ。『月刊少年ガンガン』の編集部に配属される。その後『月刊少年ギャグ王』『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』などの編集に携わる。1998年、『月刊少年ガンガン』デスク就任。2001年、同誌編集長就任。2008年、Web雑誌『ガンガンONLINE』の編集長にも就任(兼任)。2017年、マンガアプリ『マンガUP!』を責任者として立ち上げ。2018年、DeNA入社。マンガボックス編集部にて編集Gリーダーを務める。2019年4月よりマンガボックス部長を兼任。

第2回も、松崎武吏の「編集者道」。いち編集者としてスタートし「自由にマンガを作っていきたい」と思っていた松崎が、あるきっかけを通してチームを束ねる意志を固めるまでの流れと、その間の経験を通じて、編集の現場で作家から学んでいったことを語ります。
(※インタビュー内容は、これまでの経歴の中での個人の見解となります)


実戦の中で学ぶ日々。『4コママンガ劇場』で共に闘った作家さんたち

作家さんと共にひたすら悩み続けた『4コママンガ劇場』

マンガの編集をしていく中で、作家さんと苦労をともにする場面は沢山ありましたが、その中でも絶対に忘れられないのは『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』をはじめとする「ゲームを題材にした4コマ」マンガのネタを「通す」(採用される)こと。当時は雑誌『月刊少年ギャグ王』の出版と並行して、書籍としての『4コママンガ劇場』も2か月に一度くらいのハイペースで定期刊行されていました。つまり、雑誌と書籍の編集が常に同時進行している状況。編集部員も各自が10名くらいずつ4コママンガの作家さんを担当し、激務を極めていて、皆、編集という名のアスリートだった(笑)。何よりも、オリジナルの連載作品を持ちながら4コママンガも描かれていた作家さんたちは、特に大変だったと思います。

その4コママンガのネタを通すのが、とにかく難易度が高かった。堀井雄二さんの大ヒットゲーム『ドラゴンクエスト』を題材にしたマンガであり、広い範囲の読者が楽しみに待ってくれていたため、ドラクエの世界観を守り、かつ質の高いネタでないとOKが出なかった。ネタの選考は、編集部内での回覧として全編集者でチェックしていきます。印刷されたネタの束に、◯△✕の評価とコメントを付けていく。最終的には保坂編集長の赤ペンでの◯が付いたたものだけ掲載OKとなりますが、その赤◯がなかなか出ない

作家さんがネタを上げてきてくれても、10本中、1〜2本が通るか通らないかという確率。全ボツも当たり前のようにあったため、作家さんが苦心の末、面白いと思って上げてきてくれたネタが通らなかったとき、次のネタ作りに向けてどのように相談すべきか、本当に頭を悩ませる日々でした。
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2001年、TVCM撮影現場にて

作家さんと共に苦しみ、考え抜いた日々が「編集者」としてのベースに

そうしてなかなか通らないネタに対し、「ネタを通すためには」という角度からどこをどう変えればいいのかを提案するだけでなく、発想を変えて別のネタに改編してみたり…。アイデアの提案だけでなく、ロジックでの整理も必要。そんな時に先輩編集者たちのアドバイスややり方は、ネタを通す上で大変参考になりました。特に、飯田さんという先輩(※飯田義弘氏:2代目『月刊少年ガンガン』編集長、現・マッグガーデン代表取締役社長)は、ネタのクオリティを担保しながら効率よく作家さんを導いていく力が圧倒的だった。いつも最速で担当分のネタを通し、しかも面白い(笑)。編集者は、作家さんとの二人三脚でアイデアを考案する制作の補助者というだけでなく、スケジュールとクオリティを管理するマネージャーでありプロデューサーでもあるんだ、ということを、飯田さんの仕事を見て思い知らされました。

時間との戦いの中、考えて提案して、足して引いて、出して通して、の繰り返し。4コマという狭くて広い世界に作家さんの持ち味を凝縮し、何が面白いのかをとことん追及する。作家さんは、編集者がしっかり寄り添えば、最後には読み手を唸らせる底力を必ず見せてくれる。上手くハマれば、シリーズネタとして連続して通ったり、満場一致で◎や、ハナマルが付くこともありました。4コマは、シンプルで制約があるゆえに奥が深く難しい。当時、ひたすらネタを見ながら、作家さんと共に悩んで結果に繋げていった経験が、今でも編集者としてネームを見る上での、大事なベースになっていると思います。
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あの時の状況すべてが、『月刊少年ガンガン』編集長として覚悟を決めさせた

降って湧いたような『月刊少年ガンガン』編集長就任と、編集長として最初にしたこと

『月刊少年ギャグ王』や『4コママンガ劇場』から離れた後、再び『月刊少年ガンガン』の編集部で仕事をしていたのですが、2001年に大きな組織変更があり、新たな体制で雑誌を運営していくことになりました。当時の連載作家さんや、編集長クラスの先輩編集者たちが、新会社へ移籍してしまうという極めてイレギュラーな状況でしたが、逆に、体制を刷新して臨むしかないという覚悟もあったかもしれません。2代目の編集長だった飯田さんの意志と、周囲からの声もあり、僕が3代目のガンガン編集長に就任しました。本当は…『北斗の拳』の「雲のジュウザ」のように自由気ままに生き、まだまだ暴れたい盛りの20代後半の時でした(笑)。

今から思えば、通常ではなかなかない、過酷な状況だったと思います。でも、残ったメンバーでやっていくしかない。まず最初に行った仕事が、当時の副編集長(※下村裕一氏:現『月刊少年ガンガン』4代目編集長、株式会社スクウェア・エニックス マネージャー)と、若手の超新星の編集者(※湯村宣昭氏:現『月刊少年ガンガン』副編集長、スクウェア・エニックス マネージャー)に、進むべき目標を見据えた布陣と役割の確認のために、自分たちを『機動戦士Ζガンダム』の「エゥーゴ(反地球連邦組織)」に見立てた組織図を書いて提案してみたことでした。エゥーゴは、共通するひとつの目的のために、様々な立場のキャラクターによって構成された新しい組織。編集部のメンバーがエゥーゴでいうならばどのキャラクターに当たるのかを相談しながら決めていきました。今も忘れない、西新宿の喫茶店で、誰がこのキャラだ、いや違う、などなど、3人で真剣に…。何をやってたんでしょうね…(笑)

僕は編集長なのでブライト艦長。そりゃ本当は戦艦から指示を飛ばす艦長じゃなくて、ガンダムで出撃するパイロットの方が全然よかったのですが(笑)、 自分たちの戦力には、僕から見たクワトロもカミーユもいたので… ええと、たぶん、この話、分かる人にしか分からないと思うので(笑)、分かりやすく言うと、 三国志なら劉備のもとに初めから関羽・張飛がいる状況… って、より分からない??(笑)

とにかく、だから、自分はブライト「艦長」でいるべきだという覚悟ができた僕の役割は、自分たちが進むべき方向を示して舵を取ること。そして、エースパイロットたちが戦闘で疲弊しても、帰還できる「艦」をしっかり守ること。その役目に徹しようと決めました。少しすると、エゥーゴに新しい光をもたらすような、『ZZガンダム』の物語へと繋がる新世代のメンバーも続々入社してくれて、より戦える組織になっていくのですが。…もう、このくだり、分かる人だけ分かればの域ですね(笑)

でも、間違いなくいえるのは、その組織図は、新体制、そして編集長としての僕の原点です。
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2001年、『月刊少年ガンガン』編集長就任当時。改革の理念を「新生誕」というオリジナルのワードに込めてリニューアル体制を始動。そのキャラクターから「変集長」の愛称が付いた頃。初対面の人から大抵「なぜこの人が中心なのか」と思われたが、接していく中で「だからこの人が編集長なのか」と不思議と納得してもらえたという。ブライトとしての覚悟を固めた効果か。

作家と作品、読者の方々、そしてスタッフみんなで逆境を乗り越えた

大変な環境からの船出でしたが、当時は不思議とその状況を辛いとは一度も思わなかった。逆境も楽しんでいたからこそ編集部に一体感が生まれて、何か一つやり遂げるたびに、自分たちが成長している実感がありましたね。何よりも、新体制の時に、作品を連載していただいた作家さん、そして読者の皆さんの存在は本当にありがたかった

ただ、それでもシビアな現実が形になったのが雑誌の「厚さ」。それまでは 厚みが自慢だった『月刊少年ガンガン』 ですが、自分が編集人として世に出した一号目は、とても薄くなってしまった。今でも、その号を見ると当時の感情がよみがえります。

その「薄い」号で新連載としてスタートしたのが『鋼の錬金術師』を筆頭とする、メジャーな少年誌としてのカラーを担う一連の作品群でした。荒川弘先生、大久保篤先生、柴田亜美先生、岸本聖史先生をはじめとする多くの作家の方々の力と、応援してくれる読者の皆さんのおかげで人気の連載も増え、雑誌は着々と力を付けていきました。あくまで僕個人の考えにはなりますが、作家と作品、読者の方々に、編集部としても出版社としても成長させてもらったと思っています。

また、それまでは編集者を怒るおっかないイメージだった(!)事業部長(※田口浩司氏:現・株式会社スクウェア・エニックス エグゼクティブ・プロデューサー)の存在も大きかった。田口さんは、ファッション誌の編集者を経て、営業部長、ゲームの宣伝部長も歴任された方。クリエイティブなマインドを持ちながら数字のロジックも備えていて、なおかつ『宇宙戦艦ヤマト』の「波動砲」や『銀河英雄伝説』の「トールハンマー」のような桁外れの大砲も持つ(笑)、自分が尊敬している方身体を張って若かった編集部の盾になってくださったことは、本当に心強かった。おかげで、それまでさほど編集部と密接な交流のなかった営業部の人たちともまさに「一致団結!」して、新たな出版社の形になっていった感がありました。

当時、田口さんに言われて印象に残っているのは「今のガンガンからはオーラが出ている」という言葉。自分たちでは気づかずとも、チームが大きな力で前へ進んでいる時は、部署からオーラが出ることがあるんだよ、と。そのような状況の中で、素晴らしい作品とともに仕事ができたこと、また、あの逆境をともに乗り切った戦友の存在は、いち編集者としての自分にとって、かけがえのない人生の財産です。
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『鋼の錬金術師』というメガヒット作品が見させてくれた景色と、胸に湧いた「誇り」

そして…編集部として、また出版社として、**見たこともない景色を見せてくれたのは『鋼の錬金術師』**でした。それまで『月刊少年ガンガン』の目の前に、越えられない壁のようなものがあったとしたら、それを乗り越えた、というよりも、突き破って大きく前進させてくれたような、そんな思いにさせてくれた作品でした。国内はもちろんですが、特に海外の読者の反応を目の当たりにした時、コンテンツの持つ力の偉大さをあらためて知り、この仕事に関われて幸せだと強く実感しました。

また作品だけでなく、荒川弘先生という作家の偉大さにも学びが多かった。当時の営業の言葉を借りると、まさに『キン肉マン』の「完璧(パーフェクト)超人」(笑)。作品づくりにかける一切の妥協のなさと、常に謙虚な姿勢人間としての素晴らしさには、学びを越えて「敬服」の言葉しか出てこないです。

そんな荒川先生やスタッフの皆さんをお招きした初めての感謝の宴席で挨拶をしたのですが、「『鋼の錬金術師』が、ガンガンで連載されていることを誇りに思う」と話しました。

それまで、「誇り」という言葉は、心で思っても人前で口に出して使うことには抵抗がありました。重みがあるゆえに、気恥ずかしい言葉ですしね。でも、新体制として出発して、多くの先輩方がいなくなってしまった状況の中、編集部のメンバーと手探りで進みながら、自分たちの象徴と誇れる『鋼の錬金術師』のような作品を世に届けるお手伝いができたということ。雑誌がメジャー誌として認知され、未熟だった僕自身も編集長として成長させてもらえたということは、荒川先生をはじめとする連載作家の方々、読者の皆さんと、田口さんをはじめとする仲間のおかげだと心から思えた。その感謝の思いを表現しようとしたとき、「誇り」という言葉が極めて自然に出てきました
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2004年、台湾でのマンガイベント参加時